田尻悟郎先生の授業観-レヴィナス『全体性と無限』を援用して-

Pocket

アクティブラーニングの先駆者として、英語科の田尻悟郎先生という教師がいます。田尻悟郎先生は優れた授業の実践者として知られていますが、その背景は哲学・倫理学者レヴィナスの『全体性と無限』を読む説くことによって、理解が深まることに気づきました。今回の記事では、田尻悟郎先生の授業実践について、レヴィナスの『全体性と無限』をベースにして、語りたいと思います。
中学生3-300x200
中学生6-300x200-2

田尻悟郎先生の授業とレヴィナスの論考

田尻悟郎先生は、はじめから優れた教師だったわけではありません。学校が校内暴力で吹き荒れていた時代に教師になった田尻悟郎先生は、学習者に対してスパルタ教師になり、厳しい指導を続けていました。しかしながら、田尻悟郎先生は学習者たちが「自分を恨みにしてパワーを出した」ということにショックを受けます。それから、時間をかけて、「教師=エンターテイナー」という理念を持つに至り、現在の田尻悟郎先生が生み出されました。これは紛れもなく、田尻悟郎先生が学習者に対して、「誠実」な態度を持っていたから起こった奇跡でしょう。教師の中には、「自分が正しい」と思いこみ、学習者からの批判を受け流したり、いいわけでごまかしたりする者もいます。田尻悟郎先生はそうではなく、学習者の批判を真摯に受け止め、自分を改革していった「内省的実践者」です。その内省の過程ですが、レヴィナス「全体性」の概念と「無限」の概念で記述することができます。田尻悟郎先生は若い時、「全体性」の論理で学習者を吸収しようと考えていました。全体性は「個が全体に還元される」という考え方で、学習者をコントロールしようという考え方だったということです。それを内省により「無限」概念に進化させました。無限とは「他者は<私>に回収されることが絶対的に不可能な存在」とみなすことです。学習者をコントロールすることはそもそも不可能であり、学習者は自らの自発的な「気づき」によってしか成長できないという考え方に変えたということです。田尻悟郎先生は「熟していない実は刈らない」と語っており、学習者が自ら「気づく」まで待つことを重視します。さらに、レヴィナスは「人間の顔」を重要視します。田尻悟郎先生の学習者の「顔」への直面は、内省によって劇的に進化しました。田尻悟郎先生が学習者に「恨みだった」と告げられたときは、顔を下に降ろし、学習者のことを直面できなかったそうです。しかしながら、内省後の田尻悟郎先生は学習者の顔に向き合い、学習者のこころを火をつけることに挑戦します。以上のように、田尻悟郎先生の授業観の転換には、レヴィナスの『全体性と無限』にあるような「全体性」から「無限」概念への進化があったと考えられます。学習者をコントロールしようとするのではなく、学習者が自ら立てることのできるように待つことこそが大切ではないでしょうか?